極限の半分手前

先日46歳を迎えた、戦国時代ならあと4年で大往生。下天を喰ふれば夢幻の如くなりだ。

半年以上前から始めたトレーニングとジョギングを見直してみた。

つまり効果はそこそこあったがどこか「やったことに満足」している気がした。

始めたきっかけは、不甲斐ない試合をしたのに仲間に優しい言葉をかけられて「これではダメだ」と自分にペナルティを課したのが始まりだ。

数年続いた時に40歳と言う大台が見えてきた60歳すぎても溌剌とした人、他方で惰性で文句ばかり言って過ごしている人。
自分が満足していればどちらでも良いだろう。
しかしながら、快活な年輩の方がどうしても好かれる傾向にある。

バスで席を譲られて照れを隠しながら好意を受けるご老人に憧憬の眼差しを持ったからなのかもしれない。

それまでのトレーニングの考えは自分もインストラクターとして最善を尽くそうと言うものに変わってきた。

そして昨年から10年以上通っている筋肉の共射(瞬発力向上や怪我予防)を目的とするジムに加えて昔ながらのトレーニングジムに通い始めた、ジョギングも距離を5km、8km、10kmと週4回振り分けていた。

もちろん、体力やパフォーマンスも上がったと思うが、どうしてもそこに「自分らしさ」を感じなかった。

その原因の一つとして疲れているのに眠りが浅く、夜に目が覚めてしまう現象に陥った。

もちろん、毎日ではないがしばし起こった。

まず、夕方以降コーヒーを飲むのを控えた。

それでも、改善は見られずふと考えが頭をよぎった「疲れすぎじゃね?」。


神経は交感神経と副交感神経がある。
前者がスポーツや勉強、仕事で集中するときの脳の興奮状態、後者は寝る時やぼーっとしたりするリラックスした状態。

おそらく、トレーニングとレッスンで興奮しすぎているのではないか?

つまり陰陽五行道でも言われているが光と影、プラスとマイナス、正と負、色々なものが対になってバランス良く機能することが良いとされている考えだ。

確かに、思春期に自分に甘かったことを省みて常に追い込むことを考えていたが実は体は存分に休む状態にないのではと言う結論に至った。

それから少しプログラムを変えてみた。

走るのは1日おき、トレーニングも重さを減らして15〜20回を3〜4セット、その日の体をみて鈍ってそうなところを鍛える。

2ヶ月ほど続けたら少し「筋肉の声」が聞こえるような気になってきた。

目指すは中国拳法のような細くてしなやかな筋肉。

あるお客様が「元気なおばあちゃんを目指したい!」とおっしゃっていたが僕は「細マッチョな動けるじじい」を目指していきたい。



私は決して途方もない大器晩成型でもないが、長い年月をかけて自己を磨き続けてきたことには少し自負できるようになってきた。

その過程で、身体を動かすことの楽しみと、それに伴う精神的な清々しさを知った。

ジムで鍛えることは、ただ筋肉を増やすだけではなく、自分自身と向き合う時間となっている。

鏡の向こうの好敵手とトレーニングを続けることで得られる精神的な安定感と自己肯定感は計り知れない。

そして、ある日出会った友人が「もりっちょは昔から正義感が強かったからな」と笑顔で話しかけてきた。

自身にそのつもりはなかったがこの言葉が、さらに私のモチベーションを高めた。

私はただ単に体を鍛えているのではなく、毎日を意味のあるものに変えているのだと実感した。

そんな日々の中、体の変化だけでなく心の変化も感じ始めていた。

トレーニングによって疲れることも多いが、それに見合うほどの大きな満足感がある。

まるで、古の武士が過酷な修行を乗り越えるように、私もまた自分の限界に挑み続けている。



年齢を重ねるごとに、体の回復力は確実に落ちてきているのだろう。

しかし、それを悲観することなく、賢く体を動かす方法を学んでいる。

長く健康でいたい、それが私の願いだ。

日々のトレーニングと反省を重ねることで、体は徐々に変わってきている。

筋肉の柔軟性と耐久力が増し、老化のスピードを遅らせることができると信じている。

むしろ若返る可能性も切望している有様だ。

そして、この健康的なライフスタイルが、人生の後半戦でも自分自身を高め続ける糧となっているのだ。

確かに若い頃のように無理が利くわけではないかも知れないが、部活で死ぬ思いをしたことがないし、追い込んで倒れたこともないので限界を知らない。

その分、自分の体と心に誠実に向き合う時間が増えた。

これからも、この自己との対話を大切にしながら、'動けるじじい'を目指していきたい。

頑張りすぎてみて、ほどほどに、毎日抑揚をつけて動くことこそが明るく楽しく過ごす秘訣だと思い始めた。