「死ね」と言ってしまった子供の心境と成長

子供の中でのコミュニティーは子供たちのみで形成されます。

ジュニアレッスンに携わっていると子供たちの「本音」を常に聞くことができます。

もうかれこれ19年目となりますが子供たちの悩む事と言うのは基本的に同じ。
時代は進化しても人間と言うハードウェアは変わりません。

冒頭にあった言葉。
つい最近の出来事、1人の子が「俺、お母さんに死ねって言った事ある」といった話を虚勢を張った感じで自慢げに、そしてもちろん不安げに言葉を放ってました。

それにそれぞれの反応を示します。
「そりゃやべえだろ!!俺も言ったことあるけどそれはやべえ」…。

もう1人の子は「それはだめでしょ」とニヤニヤしながらスマホをいじります。。

この話していた内容を友達伝でバレるとまずいと!思ったもう1人の子はニヤニヤしながら沈黙を決め込みます。

ここで大人が注意することもできますがあくまでも子供のコミュニティーでしかも現場に言わせなかったのに大人の意見を法律のように突きつける事は信頼関係を失います。


彼らがどのように感じて、彼らがどのように解決しているのか、これは本人たちのコミニケーションの1つであり、よほど悪い影響に傾かない限りことの一部始終が終わるまで静観します。

それでも言い出しっぺが答えを求めるようであればある程度の幅をきかせて正論を伝えます。

「死ね」て言うのは言わないほうがいいけど、状況にもよるよね?俺も言ったことあるけどあんまり言わないほうが良いかもね。

子供たちのコミュニティーの中でほとんど腑に落ちた様子だったので、ある程度の幅をきかせて個人的な意見として返答しました。

大人の勝手な理想論や、意見を押し付ける事は子供からの「反感」や「不信感」につながります。

自分の少年期に振り返ってみても結局のところ1番大切な「高校生=精神的な基礎の確立」の時期に差し掛かってまで「自分」と言うものを見極めることができません。


つまり精神的には肉体的な赤ちゃんや3歳の子供のように不安定な状態だと言うことを理解した上で発言しなければならないというのが私の持論です。


子供たちは子供たちのコミュニティーでのみ今の自分を見つめることができ、関わる大人の人生経験こそが「可能性」としての将来の景色を垣間見させることができると思います。

その中で「大きな失敗で」や「大きな成功例」まで幅広く過程と結果を見てきました。

そしてその背景には僕の矜持のひとつとなる言葉があります。

サッカーで日本代表に選ばれたある選手の身内の方が19年前僕に伝えてくれた「子供は第三者の大人次第でその成長を大きく変わる」!と言う言葉です。

今では華やかな舞台で活躍するサッカー選手ですが、その過程において中途半端に歩んだ選手、一心不乱に歩んだ選手、その中での親と指導者の取り組み姿勢を見てこられたからこその言葉なのでしょう。


胸に抱き20年近く第三者として接してきた経験からおおよその答えを得るようになりました。

広い世界を見てきた多様性のある大人と関わる時間の積み重ねこそが子供の有意義な成長のきっかけとなるのかもしれません。

子供たちの本音は(聞かなくていいこともありますが、笑)実に純粋で、ある意味大人より正しく素直な言葉なので一つ一つ向き合いつつも本職を忘れることないように協調していきたいと思います。