自己肯定感が低くても……成功する人、しない人

最近もっぱら流行語となりつつある「自己肯定感」


高い人が良くて低い人は悪いといったような風潮がありますが、実は2パターンあります。

それは学生時代に周りから「結果」を出せたかどうかと言う点に大きな分岐点があるようです。

学年で1番になった、地域で1番になった、全国で1番になった、世界大会に出た……

もちろん当の本人は満足していたり、そうでなかったりだと思いますが、「客観的に」周りから評価を上げた人間は幸せになる傾向があります。

反対に何をしていたか分からない状態のまま「適当に」過ごしてしまった場合大きな負債が社会に出てから降りかかってきます。

もちろん例外もあり、「何となく過ごしていた」といった自覚がある人はこの限りではありません。


人と人との関わりがある以上キルケゴールの定義に基づき「人間関係」が成立します。


もちろん本人が満足していなかったとしても周りの評価があなたを社会的的に高い水準に持ち上げてくれます。

一方で、後者の場合は、まず、周りと協調とまでいかなくても「相手を察する」努力から始めなければなりません。

友達関係においてもなぜかいじめられる人、何もしていないのに周りから憧れる人、小学生時代は足が速くてスポーツができる子がモテて、中学生からは勉強ができる子が少しモテて、やんちゃな子も少しモテて、高校生や大学生、専門学生になってくると「自分を強く持っている」人が憧憬の対象となります。

令和の時代は子供のあり方、手の差し伸べ方にその将来は少なくとも順風満帆に近づける保証がされているのだと感じます。

できないことから逃げて諦めているのに対して「好きでない」「痛い、辛い」と逃避してしまい、偽りの学問を学ぶために「塾に行ったふり」をしてしまう。

絵を書いたり、ダンスをしたり、スポーツをする事は勉強の次とされてしまう……

国語だけ、数学だけ、英語だけ…していた人間が、数学だけ鬼のようにできる人間が「平均的優秀」を求められたりしてしまう…

何か1つを極めようとする事は悪なのか?
日本人が冷た日本人だけの勉強が、インターネット社会になった今、「コミュニケーション能力」が必要とされる欧米のスキルに勝ることができるのであろうか?

子供の頃からやりたいことだけに真摯に向き合うことで多くのことを学ぶに違いない、「自分がやりたい」と思えること自体が史上最強の先生なのだから。

結論、勉強でもスポーツでも突き詰めていけば必ず「学ぶ」と言う壁にぶち当たる。

そしてそれを乗り越えた人間こそが「結果」、強いて言うならば周りの人から見た「評価」につながるのだろう。

何年経ってもその時勝ち得た情動は深層心理に眠っているはずだし、何よりも体で覚えているのだと思う。

周りから必要とされるに人間になるのだろう。



そして学生時代に何かに真剣に没頭する事は1番の自己肯定感を育むのだと思う。


子供の間は親の不安も絶えないと思う、子供自身もそれに翻弄されるのかもしれない。

しかし一方で、何か強く心に持つものがあればきっと成功するだろう。


いじめられっ子だった幼少期を振り返り、なぜここまで自分が前向きになれたのかを辿ってみた。