適当って本当にダメなの?

適当に生きる大切さ。

「適当」と言われるとどうしても、いい加減だとか、やる気がないだとか、諦めていると思われがちです。

もちろん宿題を適当にして全問不正解だったり、テニスでやる気のないプレーをしてパフォーマンスを下げたり、相手に失礼な態度をとる事は良くありません。

しかし、定義を「とにかく自然と机に向かってみる」「とにかく1つのことをイメージして動作を繰り返す」別に、勉強していて遊びのことを考えても良いですし、テニスをしながら今日の夜ご飯や楽しいこと、自分の他に興味のあることに思いを巡らしてみてもいいと思います。

ただし、目の前の物事に対しては、勉強であれば問題集をとにかく解く動作をおこなう、テニスにおいてはフットワークやスイングを駆使してひたすらボールを打つ、でも感情は違うところに…

興味深い例えがあります。
漫画で言えばエースをねらえ!の岡ひろみが強敵相手に圧巻の勝利を収めた時、現実世界では野球の世界大会WBCの時の不調のイチローが韓国相手に追い込まれながらも劇的な勝利の一打をおさめた時、前者は頭の中で心地よい音楽が流れ、後者はもう1人のイチローが客観的に「さあどうするイチロー、追い込まれたぞ…」的に頭の中でアナウンスされていたと言われています。


別の事象に置き換えてみます。
例えば「休む/休養を取る」の問題です。

気分転換や、ストレス発散をするためにゲームをしたり好きなことをしたり、ゴロゴロしたりします。

このこと自体が問題ではありません。

しかし、気がつくと〇〇のために休む/休養を取るといったことが、休む/休養を取る自体が主体となり、本当の目的を忘れてしまっている点に問題です。
〇〇のために休む/休養を取るといった主体の部分である〇〇がおろそかになってしまっています。

ではどのようにすればこの事態を回避できるのか。
それは常に「〇〇のために休む/休養を取る」といった点にフォーカスして過ごすことです。そうすれば、休むこと自体が目的となりきちんと〇〇をより新鮮なもの、良いものに変えることができます。


話は戻りますが、冒頭でお話しをした「適当」はこれに少し似ていて、時に人間は一生懸命やりすぎると空回りして良いものが出ない場合もあります。

そのため、ひたすら修行僧のように、精密機械のように、川の上流から下流へ向かって流れていく凸凹の石のように、流れに身を任せて完遂させることもときには大切だと思います。

話は戻りますが、冒頭でお話しをした「適当」はこれに少し似ていて、一生懸命やりすぎると良いものが出ない場合もあります。


そして、これがしっかりと達成されると「適当」の意味合いが長いスパンにおいて「適切」になり、振り返ってみれば「適材適所」となります。

この問題は非常に難しいものではありますが、生きていく上では重要なものとあり、レッスンのみならずプライベートでも活用できる方法だと思います。

私はとある理由から毎日3キロほど走ると決めて10年目となりますが(そこまで速くないペースですよ、笑)、もちろん今に至るまで1週間の半分以上はやる気が出ません(笑)、しかし、朝体を起こして、ルーティンワークをやって、靴を履いて、音楽やその他聞きたいYouTubeを耳に当て、機械のように動き始めます。


そして自分のやるべきことを下記の生理現象と同等に扱うように心がけています。

睡眠とトイレ、この2つは我慢に限界が来ます、絶対にやらなければ無理ですし、体が勝手にそのように反応してくれます。

この考え方にはルーツがありました。
高校時代の恩師に言われたことが、このレベルになる位古典単語を覚えなさい!!

このことが何十年も心に響いています。

確かにその通りです。

これを42歳となった今でも心に留めることで、「適当」を高いレベルで達成しようと歩む毎日です。

「適当」は気がつけばしっかりと取り組むことで「適切」となり、後で振り返ってみると「適材適所」になっています。

思い悩む前に違った視点から「適当」を昇華してみてはいかがでしょうか。

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