優しさは刃にもなる——それでも思いやりを選ぶ理由

世の中には、本当に困っている人に手を差し伸べられる人がいる。自分自身も決して余裕があるわけではないのに、誰かが苦しんでいるときにそっと寄り添い、優しい言葉をかけたり、できる範囲で助けようとしたりする。こういう人のおかげで、救われる人は多い。

人間は、どんなに強く見えても、一人では生きていけない。困難なときに支えてくれる人がいるからこそ、立ち上がれるし、また前を向ける。その優しさが巡り巡って、今度は救われた人が誰かを助ける側に回る。思いやりは、そうやって連鎖するものだと考えられる。自己肯定感が高い低いということは、他人と関わることが人間の本質である。以上、こういった関係性が結果として顕著に現れる。

しかし、現実には、その優しさに付け込む人もいる。善意を利用し、相手の気持ちを踏みにじり、さらには追い打ちをかけるようなことをする人もいるのが悲しいところだ。

本当に思いやりのある人は、誰かが困っているとき、たとえ自分にとって不利益が生じる可能性があっても、何かしらの行動を起こそうとする。損得勘定ではなく、ただ純粋に「助けたい」という気持ちがあるからだ。こういう人は、単なるおせっかいではなく、相手の立場に深く共感できる能力を持っている。だからこそ、その場しのぎの助けではなく、相手が本当に求めているものを考えて動ける。例えば、落ち込んでいる人にただ慰めの言葉をかけるのではなく、「この人が次に前を向くために、どんな言葉が必要だろう?」と考えることができる。そして、こうした人の存在が、どれほど周囲を支えているかは計り知れない。見返りを求めることなく、誰かのために動ける人がいるからこそ、世界は少しずつでも温かくなっていく。

一方で、思いやりのある人の優しさを利用しようとする人もいる。困っているふりをして、人の善意に甘え、何度も頼るだけ頼るのに、自分からは何もしようとしない人。あるいは、「助けてもらって当然」といった態度で感謝すらしない人もいる。さらに最悪なのは、相手が弱っていることを利用して、支配しようとする人や、追い打ちをかけるようなことをする人。落ち込んでいる人を見て「この機会に利用しよう」と考えたり、優しさにつけ込んで相手を都合よく動かそうとしたりする人もいる。こういう人たちの存在が、思いやりのある人を疲弊させ、場合によっては「もう誰も助けたくない」という気持ちにさせてしまうこともある。本来なら助け合いの精神が巡るはずなのに、こうした搾取する人がいることで、優しさが裏切られる場面も少なくない。

この二つのタイプの違いは、どこから生まれるのだろうか。一つは、価値観の違いだ。「人は助け合うもの」と思っている人と、「人は自分の利益を優先すべき」と考えている人では、そもそも行動の基準が異なる。もう一つは、経験の違いも関係しているかもしれない。過去に助けられた経験がある人は、その恩を次に渡そうとする傾向がある。一方で、他人を利用することに慣れている人は、それが当たり前になってしまい、思いやりを「自分が得をするための手段」として考えてしまうこともある。さらに、性格や環境も影響する。幼少期から周囲に思いやりのある人が多かった人は、自然と「人を助けることは大切だ」と学ぶ。一方で、厳しい環境で育ち、「自分が生き残ることが最優先」と思うようになった人は、どうしても利己的な行動を取りがちだ。

優しさを利用されることは、悔しさや虚しさを感じることもあるかもしれない。しかし、だからといって思いやりを持つことをやめるべきなのだろうか。たとえ裏切られたり、利用されたりすることがあっても、本当に救われる人がいるなら、それだけで十分なのではないか。たった一言の優しい言葉が、その人の人生を変えることだってある。もちろん、思いやりを持ち続けるためには、自分自身を守ることも大切だ。「優しさ」と「利用されること」は違うということを理解し、必要な線引きをすることも、長く思いやりを持ち続けるためには必要かもしれない。ただ、だからといって、人を疑うことを前提にはしたくない。誰かを助けることが、「また誰かが思いやりを持つきっかけ」になるなら、そういう輪を広げる側でいる方がよいのではないか。

世界には、思いやりを持つ人がいる限り、救われる人がいる。そして、その思いやりは、必ずどこかで誰かに届き、また新しい優しさを生み出す。こうした考えを持つ人が増えれば、社会全体が少しずつでも温かいものになっていくのではないだろうか。