「みんなやってる」から「みんなできてる」へ…成長に伴う社会性のシフト

子どもの頃、よく使った「みんなやってる」という言葉。これは、欲しいものを手に入れるためや、自分の行動を正当化するためのフレーズとして頻繁に登場しました。

「友達もやってるから自分もやりたい」という共感や安心感を求める気持ちが背景にありました。しかし、成長するにつれて「みんなやってる」は「みんなできてる」に変わり、社会的な意味合いが大きく変化します。この変化は、社会の中で最低限求められる基準と、それに対応する責任感を反映しています。

大人になると、「みんなできてる」とは、例えば時間を守る、ルールを理解して従う、仕事や勉強を遂行する、他者と調和する、といった行動を指します。これらは社会生活を円滑にするための最低限の要素であり、これができなければ周囲との信頼関係を築くことは難しくなります。

一方で、この「みんなできてる」という感覚が自己評価の基準になると、問題が生じることもあります。例えば、仕事や家庭でのタスクがうまくいかないときに、他人と比較して「自分だけができていない」と感じてしまうこと。あるいは、反対に自分の未熟さを棚に上げて、他人の行動や結果を批判することで自分を正当化しようとすることです。これらの行為は、周囲との調和を崩し、自分の成長を妨げる要因となります。

社会には、「最低限のできている」という基準があります。この基準を満たすことは、自分自身のためだけでなく、他者との関係性や調和を保つためにも必要です。例えば、職場での基本的な業務スキル、学校での規則やマナー、家庭内での役割分担などが挙げられるでしょう。これらを怠ると、他人に迷惑をかけたり、集団の中で孤立したりするリスクがあります。それゆえ、「できていない部分」を意識し、それを改善する努力をすることは、社会で生きていく上での責任とも言えます。

しかし、この基準が一人ひとりの性格や能力、状況を無視して一律に適用されるべきではないことも事実です。「できていない自分」を過剰に責めることなく、自分が何を優先すべきかを冷静に見極めることが大切です。周囲と調和するための最低限をクリアした上で、自分自身の価値観や目標に基づいて行動することが、本当の意味での成熟した社会性ではないでしょうか。

最後に、この考え方をテニスに例えてみます。テニスにおいても、最低限の「みんなできてる」が求められます。例えば、試合中のフェアプレーや、基本的なルールの理解、そして相手へのリスペクトは欠かせません。その段階ごとの技術水準も大切です。

これらができていなければ、試合そのものが成立しません。一方で、他の選手が難しいショットを決めているからといって、それをすぐに真似しようと焦る必要はありません。自分のレベルに応じた基礎をしっかり固めながら成長していくことが、長い目で見て最も効果的です。

社会もテニスも、「みんなできてる」という基準を意識しつつ、自分自身のペースで積み重ねていく姿勢が求められます。周囲との調和を保ちながら、自分らしい道を歩む努力を続けることが、充実した人生やテニスの上達につながるのではないでしょうか。