さくらんぼから桜の樹を目指して

思春期の手紙を偶然見つけたとき、過去の純粋な自分と再会する瞬間が訪れることがあります。

その手紙には、当時の好意に思っていた相手とのやりとりが詰まっていて、今振り返ると少し切ない気持ちが蘇ってきます。

そのころ、好きという気持ちを伝える勇気を振り絞ったこと、あるいは婉曲的な表現で遠回しに気持ちを表現したことは、その時の自分をよく表しています。

直接「好き」と書いた手紙と、慎重に表現した手紙の両方に、その時の自分の心の動きが刻まれているのです。

今、こうして過去を振り返ると、もっとストレートに「好き」と言えばよかったかもと感じるかもしれませんが、その遠回しな表現もまた、当時の純粋さや慎重さの現れであり、大切な思い出です。

手紙を読み返すことで、当時の自分がどれだけ一生懸命だったのか、その気持ちが今の自分にも影響を与えていることに気づくことができます。あの頃は、相手と「好き」という気持ちを感じ合いたくて、少しでも一緒に時間を共有したいという思いが、かけがえのない財産でした。

「心を通わせたい」というのが、人としての最も深い願望なのかもしれません。


子供のころは、大人が余計な指示をせずに、まず話をしっかり聞いてあげることが大切だと言われます。
そのように話を聞いてもらうことが、子供にとって安心感や信頼感を育むことにつながります。

また、祖父母から聞く話には、どことなく自然と人生の機微に触れさせてくれるものがあり、物語には生きるための集約された大切なヒントが隠されていることが多いです。祖父母の話を通して、私たちは人生の教訓を自然に学んでいるのかもしれません。

当時は、恋愛において恥ずかしさや、フラれることへの恐れもあったため、あまりそのことを考えたくない時期もありました。

しかし、時間が経ち、何十年も後に振り返ると、それらの経験が今の自分を形成するための布石だったと気づくことがあります。

過去の苦い経験や失敗があったからこそ、今の自分があるということです。そういった経験が積み重なって、人生の深みや意味をより理解できるようになったのではないかと思います。

私の職業柄、さまざまな人と雑談をすることがありますが、年齢に関係なく、その何気ない話が金言のように感じられる人たちがいます。

そのような人たちは、毎日を全力で生きてきた人たちでなのではと憧憬の眼差しで話を聞いてしまいます。

彼らは日々奮闘し、時には苦労を重ねながらも、一生懸命に生きてきたからこそ、その言葉に重みと深みがあるのです。何気ない雑談の中にも、その人の経験や努力が凝縮されていると感じることが多々あります。そうした人たちとの会話から学びを得ることは、私にとって大切な瞬間です。

このように、些細な経験や日々の小さな出来事を全力で歩むことは、歳を重ねた今の自分にも大切なことだと感じています。

過去の経験を振り返り、その中から学びを得ることで、今後の人生も充実したものになるはずです。

今回は目も当てられないほどの「黒歴史」が引き金となりましたが人生の様々な場面で今回のような出来事が起こっているのではないかと思います。

これからも、この姿勢を持ち続けて、人生を豊かにするためのヒントを日々の中から見つけ出していきたいと思います。

年齢を重ねる中で、全力で生きる姿勢を失わず、これからも前向きに歩んでいくことで、人生はますます充実したものになるでしょう。

過去の経験を大切にし、それを基にして今を生きることが、人生をより深く豊かにしてくれるのだと信じていけることでしょう!