その時間は無意味なのか?

スポーツの練習がマンネリ化して、特に新しい技術も学んでいないとき、コートの端に立ってただボールを眺める時間があった。

そんな時、ふとした瞬間に気づくことがある。あの時間は、ただ無駄に過ぎていたのではない。

むしろ、その「何もしない」時間こそが、心の余裕を生み出し、次のステップへの準備をしていたのだ。

ランニングコースを走りながら、田んぼや林、遠くの山々を眺める。  

足音のリズムに合わせて、景色が次々と変わっていく。

空には雲が浮かび、その形が動物に見えたり、季節の移り変わりを感じる。

「もう夏なんだな」と思うひととき。これらの瞬間もまた、心を落ち着ける貴重な時間だった。

試合前に体調を崩し、ベンチに座っている日。


試合に出られず、ただチームメイトのプレーを見つめる時間。

その時は無力感を感じたが、振り返ってみれば、それもまた必要な休息だった。

トレーニングの合間に海岸に行き、泳ぐのに疲れてしまい、波音を聞きながら水平線を眺める時間も、体と心を癒す大切なひとときだった。

遠征先のバスに乗り込み、向かいの席のチームメイトの顔を順番に見て、「この人たちは何を考えているんだろう」と思いながら想像を巡らせる。

初めてのアウェイゲームで、試合の準備をしながらスタジアムの壁にかかるポスターや外を行き交う観客を眺める時間も、すべてが心を豊かにしていた。

新しいトレーニング場所を散歩し、どこにいるのかもわからないまま歩く。

「特にすごい施設でもないな」と思いながら、足を進める時間も、その地味さの中に特別な何かがあったのだ。

今、このような時間はどこに行ってしまったのだろう。

耳にはイヤホンをつけ、スマホの画面に夢中になる毎日。

YouTubeやInstagram、TikTokやXが頻繁に更新されて退屈を感じる暇もない。

しかし、その「何もない時間」こそが、実は微量の栄養素を含んでいたのではないか。

退屈を受け入れ、ただ過ごすことができるアスリートこそ、本当に豊かなスポーツライフを送っているのかもしれない。

無駄を無駄と感じれる余裕と俯瞰が未来を作り出すのかも知れない。