病院のプレイヤー患者として学ぶ挑戦と成長

人生の半分以上過ぎたあたりから、病院に行く機会が増えた。

もっぱら、健康診断や前回書かせていただいた再検査などがメインだが、今回は「ふうしんの抗体」どうやら1978年前後あたりは接種をしていない可能性が高いらしい。

しかしながら、お医者さまや看護士さんはとても優しくなったことに驚く。

子供の頃、注射で泣くのは男らしくないと言い聞かされ、血管の細い真っ黒な肌に何度も針を刺されたのを必死で我慢した記憶がある。

お医者さんも神様のように眺められ、傍若無人も癒される時代だった。


とにかく血液検査は必須らしい…

看護師さんが「注射で気持ち悪くなったことありませんか?」と優しくおっさん相手に言葉をかけてくれる。

「血は得意でないですが、大丈夫だと思います」といった返答にさらに優しく言葉を返してくれる。

注射針を挿してるときに「大丈夫ですか?」と声をかけてくれる。

「大丈夫です」と返答するとともに、注射器のほうに目を向けると「まだ見ないほうがいいと思いますよ」とさらに優しく声をかけてくれる。

注射針に対して耐性ができたのだろうか?
46歳をもうまもなく迎えるにあたって、肉体的にも精神的にも当時の自分よりも強くなったのだろうか?

そんな自問自答をしていく中で、あっという間に検査は終わっていく…。


もし、昭和の時代にこんな優しさに触れていたのであれば、病院に対する恐怖や1種の嫌悪感はなくなっていたのだろうかと自問自答は続く…。

もしかして、職業柄医療従事者の方に多く会ったおかげで、彼らの隠された苦悩や努力、表に見せない何かを感じ取ったからだろうか?

この年になって、少し病院に対する抵抗が和らいだ…

先日もそうだが、科学の進歩とともに彼らの不安も和らいだのだろうか…。
目に見えないものを過剰に恐れる必要がなくなったのかもしれない。

ふと、仕事のことが頭をよぎる。
テニスを指導するにあたって、優しさを多く感じた。人間か厳しさを多く感じた人間、どちらが結果として良いのだろう。


ある実験において、怒られ叱られ、徹底的に厳しく、指導された人間と、褒められて、過剰な厳しさはなく、楽しく指導された。人間とでは同じ結果を導き出すことができると結論付けられた。

しかし、挫折や困難、またある種の達成感を感じて、無気力になった時は、後者が勝るとも結論付けられていた。

つまり「優しさ」から得られた「楽しさ」が自己の中で「愉しさ」になるのだと思う。


知命に近づくにつれて、楽しさを愉しさにする必要性を大いに感じてしまった今日この頃である。

「優しさ」が人生の中で重要な役割を果たすことを感じながら、さらに深い思索に耽る。

何度も繰り返される医療体験は、過去と現在を比較する機会を与える。

時代が変われば、人々の考え方や行動も変わる。

そして、その変化は個々の人間にも影響を与える。

今日の私は、昔の自分とは異なる人物だ。

それは経験と成長によるものだろうか、それとも環境の変化によるものだろうか。

そして、将来の私はどのような姿になるのだろうか。

医療従事者の優しさに触れ、仕事の指導方法についても考える。

厳しさと優しさのバランスが重要だが、最終的には人々の心を打つことが大切だ。

挫折や困難を乗り越え、愉しさを見出すことができるような人生を歩みたい。

知命に近づくにつれ、自らの内面を深く見つめ直す必要を感じる。

愉しさを愉しみとして捉え、心豊かな人生を送りたいと強く思う。