不適切から「適切」をみつける

最近、「不適切にもほどがある!」と言う阿部サダヲが出演して、宮藤官九郎が手がけている、昭和と令和の常識を対比した番組にハマっている。

今の常識では考えられないことが、昭和に合ったと言う事実を回顧しながら、価値観や考え方の変化と推移に改めて感心する。

最近、今年20歳になる子と仕事をするようになった。
自分も若いと思ったが、うちのスクールで若者ふたりを合わせた年齢が今の僕の実年齢だと言うことに驚いた。

つまり、2人分生きている計算になる。

時の流れとは実に恐ろしや…汗

しかし、ふと我に帰った時に彼ら2人分の人生を歩めているのかと言うことが頭をよぎった。

僕が彼らから学ぶことは多々あるが、果たして何かの役に立っているのだろうか?しかも2人分も!と考える。

当たり前のことだが、考えたところで1人で解決できる問題ではないことに気づく。

それはつまり、他者の評価(誰かの役に立てているのか)なくして自分自身の価値観は決まらないからだ。

少なくとも誰かの、欲を言えば、リアルとバーチャルにおいて関わる7割以上の人に何かポジティブなものを与えられていなければ役に立っていると言えないのではないかと強く感じる。

しかし考えたところで答えが出るはずもない。

少なくとも、リアルでレッスンをしている時は生徒さんが必ず一度、僕から見て「笑っているか?」と言うことを気にかける。

それは、オキシトシンやシナプスと言ったポジティブなホルモンが出ていることになり一時的でも幸福を提供できる客観的事実になるからだ。


しかし、一方で時代の変化と共に求められるものは変わっていく、また世代によってもその価値観の違いは様々だ。

だからこそ、世間話や相手の会話に耳を傾けるようにする。

しかし、時代の変化と共に、私たちに求められるものも変わる。

また、世代ごとに価値観の違いも大きく、それは絶えず変化する社会の縮影でもある。

このことから、私たちは常に周囲の人々とのコミュニケーションを大切にし、彼らの話に耳を傾けることの重要性を認識する必要がある。

このプロセスは、単に情報を収集するだけではなく、異なる背景や価値観を持つ人々との間で理解と共感を深める手段だ。

特に今日のように情報が氾濫している時代には、直接的なコミュニケーションが真実を見極め、誤解を解消する上で非常に重要になってくる。

家族間や友人の間で上手くいかない人はこの点が欠落している可能性が高い。

少なくとも理解しようと勤める姿勢が必要だ。

20歳の若者たちとの日々のやり取りは、私にとって新鮮な刺激となり、彼らの視点から物事を見る機会を提供してくれる。

彼らの疑問や意見は、しばしば私自身の考え方を見直すきっかけとなり、新たな発見につながる。

このように、異なる世代の人々との交流は、自分自身を振り返り、自己成長の機会をもたらし、それは、自分が経験したことや考えてきたことを再評価する良い機会であり、時には新しい価値観やアプローチを受け入れることで、人生の新たな章を開くこともあるのである。

さらに、私たちは、他者からの評価を待つのではなく、自らが積極的に関わりを持つことで、自分自身の価値を高めることができる。

僕がレッスン中に生徒の自然な笑顔を見ることで感じる喜びは、彼らが愉しく学び、共に成長している証拠なのだと思う。

そして、彼らがポジティブな変化を遂げる手助けができているなら、それは私にとって大きな達成感を意味しする。

生徒たちが知識やスキルを身につけ、自信を持って新たなステップに進む様子を見ることは、僕が指導者として果たしている役割の大きな喜びである。

私たちの生活や社会は、常に変化し続けている。

そのため、過去の常識や方法に固執するのではなく、柔軟に考え、時代に適応することが重要だ。

これは、特に教育の分野において顕著だ。

指導者として、また一人の人間として、私たちは常に学び続け、成長し続ける必要がある。

新しい世代、異なる世代から学び、自分の経験や知識を共有することで、互いに理解を深め、より良い未来を築くことができる。

結局のところ、私たちが他人に与えることができる最大の贈り物は、知識や技能、経験だけではない。

それは、理解と共感、そして互いを尊重する心だ。

これらは、どの世代にも共通する普遍的な価値であり、人と人との間の架け橋となる。

私たちは、異なる世代や背景を持つ人々との関わり合いの中で、これらの価値を育み、共有することで、より豊かで意味のある人生を送ることができる。

そしてそれは、時代を超えた真の教訓である。

適度な適当がほどほどな「適切」を産み出すのだ。

日々精進。