ボール飛ぶ、考える光!

最近、しみじみと思うこと、それは今の自分が誰かのおかげであると言うこと。

そして、それは幾年もの歳月が流れて「はじめて」気づかさせるものだと思います。

少し僕に「知的」な部分があるとしたら大いに彼のおかげだったと言うことを感じることができました。

正直、学校に行くと言うことにあまり意義を感じていませんでした、実際問題、今でもその気持ちは変わりません。

特に多様化された現在では、目的によってそれぞれの選択肢が広げることができると思います。

でも、しっかりとした目的がなく、もし「なんとなく…」であるのであれば、一見無駄に見えるような、ときにはドナドナの歌が頭をよぎるような日々を過ごしているように思えるかもしれません。

実際に僕自身もそのように強く思っていました。
その時は本当に心からやりたい「want to...」がないのであれば多少「have to...」でも通う方が良いのかもしれないと感じました。

当時は、口だけ番長で、成績も芳しくなく、スポーツが突出しているわけでもありませんでした…。

20数年ぶりに会ったときに感じたこと。

僕自身は彼と共に過ごした中学時代に、学ぶことの多くのヒントを得ようとしていたのだと言うことでした。

彼とその話になったとき、「一緒に勉強したことあったっけ?」「僕が〇〇したほうがいいよと言った事はなかったんだけど…」と即答されると、同時に「好きな人の恋愛相談に乗ってもらってたことだけは覚えている、笑」ということを言われて唖然としました。(笑)

そもそも僕にそんな相談をするのはもちろんですが、お互いが認識しているそれぞれの中学時代のゲシュタルトとなる思い出は、全く違うところに存在していると言うことでした。

でも、お互い打ち解けることができましたし、思い出話に浸ることもできました。

また、お互い大人になったなぁと感じたのは、(特に僕の方がですが)言葉の節々に仕事の大変さを直接述べる事はありませんでしたが、いろいろな視点でお互いにねぎらいの言葉をかけあえている点は、きっと僕が彼の心の広さと、穏やかな性格を本当の意味で理解することができ始めたからなのだと感じました。

損得勘定なしの、書き引きなしの、全く子供じみた青春時代だからこそ、また一方で、どこかでもう大人になっていると、背伸びしていたからこそ、大人になってから心が揺れるほど強く感動するのだと思いました。

そういった意味で、高校生までに知り合ったそして気がつくと、なぜだか、いつも一緒にふざけて笑ってときには、真剣な話をしたつもりになっていることこそが、この世の本当の真理じゃないのかと思わざるをえませんでした。

それはきっと、学校でなくても、テニススクールなどの1種の開かれた「コミュニティー」があることが重要なのでしょう。

20数年の月日が流れても、またコンティニューができるのは、彼がO型だったからなのか?それともどこかで昔と比べて僕の少し高くなってきたエフィカシーが共鳴しあったからなのかわかりませんがこのご縁をとにかく感謝せざるを得ない1日でした!


お誕生日おめでとう!