いじめとふつう

中学生が終わるまで、僕はいじめられていました…


余波が来始めたのは、大学生の半ば位でした。


おはようございます。かとうです。

そして、その時僕は「いたって普通な人間」と思っていました。


おそらく、この矛盾が「違和感」となって周りの不協和音となったのでしょう。


出る杭は打たれると言うほど才能があるわけではなく、大器晩成と言うほど何の才能にも恵まれませんでした。

大人になってから出会った信頼できる仲間と話していると、改めて「俺って全然人と違う…」とあらゆることとタイミングで学ぶ機会に恵まれました。

自分が「ふつう」だと思っていて「他人が変だ」って思うこと自体が間違えだと30年を経て感じました。

また、他人に第三者に対して「変だよね」って流布することは愚の骨頂なのかも知れません。


特に令和の時代は多様化している世の中でLGBTQとまでカテゴリーが増えた昨今で個人の負の概念を押し付けるのは昭和から平成初期でさえ「ふつう」の意味合いが個人の価値観で変わるのですから、多様化された現代社会において「ふつう」の定義はそれぞれの共同体によって意味合いが異なってくるでしょう。

ましてや自分が普通で、その基準に合わない人が「変な人/変わった人」とうそぶくのは我が身に跳ね返ってくるのではないでしょうか。


昔の諺に「敵を知り、己を知れば100戦危うからず」とありますが、私の場合、敵を知る以前に己を知ることができなかったのでしょう。

他人のことをポジティブに話す事は良い事かもしれません、しかし噂の大半はネガティブなものです。

古代から噂話は、生き抜くための知恵として「悪い情報」をできるだけ早く幸する必要がありました。

しかし、現在においては悪い噂は本人のみが心地よく過ごしたいがための、注目され、たいがための手段となる傾向にあるようです。

ふつうって実に難しい…!