不登校と言う蔑称が消えつつある世界

20年近くテニスコーチと言う職業に携わらせていただいています。

ときには、お医者さんのように体について詰問されたり、カウンセリングのように悩み事を打ち明けられたり、一方で、整体師やトレーナーのような体についての知識を求められたり様々です。


もちろん、専門職の方と比べれば大きく引けを取りますが、最低限の知識は「知恵」として学んでおく必要があります。


そんな中で、人と人との付き合いですから「相談事」を自然と打ち明けられることが日常茶飯事です。

特に「思春期」の悩み的な相談は「お前、そんなことを俺に話していいのか…」や「その歳でそういうことまで考えることができるのか?」などと驚きを隠せないことが多々あります。


もっとフラットに子供たちが語ってくれる事は「ちょっと聞いてよ。まだ先生さぁまじむかつく…! (怒)」や「お父さんがさぁ、お母さんが〇〇でさぁ…!」などと第一段階は大体不平不満をぶつけてくることから始まります。


基本的に「聞くこと」は、何事においても重要で、頭ごなしに否定してしまうと、きっと一生心を開いてくれないことでしょう。

特に、義務教育の先生たちの良し悪しが大きく2分される昨今では、子供にとっての、大人への思春期が終わるまでの「不信感」を中心とした「心の葛藤」は大きなものだと思います。

そして、我々の時代とは違うのは、インターネットで洗えることを調べられると言うこと。

つまり、考え方に「多様性」をもたらすことが超自然的に可能なことです。


子供でも、学校に出れば「コミュニティー」が形成されます。保護者の管理下で彼らの行動を100%監視することは不可能です。


あらゆるハードウェアに「監視機能」がついていることも重々彼らは承知しています。

「監視されている前提で」頭フル回転させているため、大人の願望が彼らに届く事は非常に難しくなってきます。


話をされましたが、だからこそ「聞いてあげる」姿勢が大切になってきます。


特に、テニススクールに通ってくれる生徒たちは「趣味」(もちろんがちな選手もいますが)の範囲がほとんどなので、居場所の1つとして訪れてくれている子たちは、心が「リラックスした状態」で、自分でも予想してなかったような「本心」を打ち明けてくれます。


めちゃくちゃやんちゃな子から学校に行かない無口な子まで…

多くの子たちと接してきました。


共通して、大人になって「立派になったなぁ」と思う。子達のほとんどは、学校でのヒエラルキーではなく「自分自身を理解して、その行動にまたは状態に《ありがと納得》できているかどうかと言う点にあります。

成績がよかろうが悪かろうが、自分自身が「理解」できていれば、人のせいにする事はありません。

逃げ癖がつくこともありません。


結局のところ老若男女問わず、たとえ心の形成が18歳までに完成すると科学的に言われている。未成年であっても、「結果」から「過程」(この場合は、自分がどう言う行動をとってきたのか)を考察する事は第3の審級を持ち合わせている人間にはこの点において対等だと思います。

不登校とは情報が統制化された、昭和から平成初期にかけて問題視された事態ですが、それは「教育を受けることができない/他者と交流することができない」などといった「隔離された社会」に懸念の矛先がありました。

しかし今はそうではありません。

「自分がどのようにあるべきか」と言うことを真摯に捉えるべきことが、人生においての意味を見出していくのではないでしょうか。