やる気がないを育んでしまわないために

無意味耐性とは…。

今の学校の教育制度に疑問を呈している、いわゆる「社会で成功した人たち」が口を揃えて言う「無駄なことを延々とやっている」そして繰り返して年月をかけるたびに「どうでもいいことに対しての耐性」が強くなってしまう。

人生が限られているのに対して「まぁこんなもんだ」と愚痴を言いながら歳をとることを受け入れてしまうといったニュアンスです。

「循環する時間」の重要性についてお話ししましたが、この時間は「楽しむ」「くつろぐ」時間であり不平不満を言いながら、一瞬の諦念を持って過ごしているものとは大きく性質が異なります。

少しフィールド変えてみても同じことが言えると思います。


「ゲームによる無意味体制」…


ゲーム自体を悪いと言うわけではなく(私はファミリーコンピュータ、ゲームボーイ全盛期の時代だったので)なんとなくスマートフォンのアプリ、パソコンソフト、ゲーム機を起動してただ無碍に時間を費やしてしまう…

言い方を選ばずに例えるのであれば、定年退職後の男性が、テレビの前に座って延々と時代劇が刑事物のドラマをお地蔵さんのように見てしまっている…

「楽しい」「嬉しい」「清々しい」「誇らしい」「気持ちいい」などの感情が意識上に上がってこないまま時間を費やしてしまいます。

SNSでも同じことが言えて、プラスの情動がないルーティンワークのようにネットサーフィンをしているとこの無意味耐性が強化されてしまいます。


またゲームにおいてはプラスの情動が刹那的に働くかもしれませんが、長期的な目で見たときに本人自身が「プラスに働いているのか」といったことを見せる必要があります。


人と人は「対話」することでそのお互いの存在を認識します。

もちろん会いたい人や会いたくない人、好きな人、嫌いな人、合う人、合わない人…様々かもしれませんが、それぞれから学ぶことがあり、少しプラスの情動が働く位がちょうど良いのだと思います。

特にに便利になりすぎた世の中だからこそ、無意味体制を乗り越えて「楽しい人生」を送るべきだと思います。

自分を騙してそのままGoTo GRAVEできるのであればそれはそれでその人にとっては良いのかもしれません。

昭和や平成初期は今ほど便利ではなかったので画一的な指針があったと思います。

令和に入ってからはそれぞれの想像力や、感受性、対応力や自己責任の概念が大切になってくるのではないでしょうか。


テニスは人と人のコミュニケーションを取ることができ、1つの空間を楽しく共有することができます。
キルケゴールの定義にとても当てはまる素敵なスポーツだと思います。

「無意味耐性」を乗り越えていくことがまず第一歩なのかもしれません。