祖父の誕生日、ケーキか仏花か?

亡くなった祖父の誕生日が近づいたとき、私は深い迷いに陥りました。生前、祖父は甘いものが好きで、プレゼントすると喜んでくれたことを覚えています。しかし、祖父がもうこの世にいない今、ケーキを買うべきか、それとも仏花を供えるべきか、その選択に悩みました。

どちらが祖父への「本当の敬意」となるのか、自分の中で答えを見つけるのは簡単ではありませんでした。

祖父の仏壇の前にケーキを供えた自分を想像すると、祖父の喜ぶ顔が浮かぶ一方で、それが「自己満足な結果」と見えるのではないかという不安もよぎりました。

反対に、仏花を供えることを想像すると、形式的ではあるものの、祖父への敬意がしっかり伝わる気もしました。ケーキ屋のショーケースの前で立ち止まり、花屋の店先でも足を止める。そのたびに「どちらが正解なのか」と自問し、心が揺れ動きました。

最終的に私が選んだのは、仏花でした。その選択の背景には、「もし生きていたらケーキを選ぶのが正しいのかもしれないが、今の祖父にとって必要なのはきっと仏花だろう」という気持ちがありました。祖父が生きていたときの記憶に囚われすぎず、今の祖父のために何ができるかを考えた結果、仏花を選ぶことが一番ふさわしいと感じたのです。

しかし、その選択をした後も、心に疑問が残りました。「祖父が本当に喜ぶのはどちらだったのだろう」と自分に問いかける時間が続きました。

仏花を手に取る瞬間、祖父がこれをどう思うのか、心の中で何度も想像しました。もしかしたら、仏壇に供えた仏花を見て「そんなにかしこまらなくてもいいのに」と苦笑いしているかもしれません。それでも、仏花を供えるという行為が、祖父への敬意を形にする一つの方法だと信じることにしました。

この経験を通じて、私は何かを「贈る」ことの難しさを改めて感じました。贈り物には「正解」があるようでいて、実はそうではありません。形や選択肢にとらわれすぎると、そこに込められた思いやりを見失いかねないのです。重要なのは、「相手を思う気持ち」がその行動や贈り物に表れているかどうかだと気づきました。

それでも、今回の選択が本当に正しかったのか、今もわかりません。もしかすると、ケーキを供えるという選択でも祖父は喜んでくれたかもしれません。しかし、仏花を選ぶことで私は祖父への敬意を伝えようとしました。この選択を皆さんならどう考えるでしょうか。迷いながらも、私は自分の気持ちに正直になり、祖父を思いやる行動を取ったつもりです。

亡くなった祖父に仏花を贈るという行為は、祖父への敬意を形にする一つの方法でした。けれども、その背後にある迷いと葛藤こそが、贈り物や行動の本質を教えてくれたのだと思います。「正しい」かどうかにこだわるのではなく、相手を思いやる気持ちを行動に移すこと。それこそが、最も大切なことだと感じました。

祖父の誕生日、ケーキか仏花かで悩んだ時間は、私にとって忘れられない貴重な経験となりました。この経験を通して、自分の選択がどう評価されるのかではなく、自分自身がどれだけ相手を思いやれたかを大事にしていきたいと思います。そして、皆さんにも同じような迷いがあったとき、どんな選択をするのか、一度考えてみていただけたら嬉しいです。どんな選択であれ、そこに「思いやり」が込められていれば、きっと相手にもその気持ちは届くはずです。