言葉の先にある人の本質

言葉とは、人と人とが心を通わせるためにあるものだろう。

私たちは、日常の会話や交流を通じて、相手と分かり合い、互いの思いを理解しようとする。けれども、時に言葉は裏切る。どれだけ言葉巧みに相手を納得させようとしても、なぜか違和感が残ることがある。逆に、言葉を交わさずとも、同じ空気を感じ、自然と相手の心に触れたように思う瞬間もある。そうした瞬間こそ、人としての喜びであり、他者と深くつながり合う体験である。エヴァで言う「人類補完計画」の真髄とも言えるかもしれない。

言葉が意図せずに嘘をつくこともある。例えば、親が子供に「勉強を頑張れ」と言う時、自分が勉強やスポーツで結果を出していないにもかかわらず、子供にはそれを求めてしまう場面がある。

親としては子供に良くなってほしいとの思いから言うのだが、言葉が持つ重みや説得力が、本来意図したものとは異なる形で伝わってしまうこともある。これは自分を良く見せたい、または他人を思いやる気持ちからであっても、結果として相手に誤解を生む原因にもなり得る。相手のためを思いながら伝える言葉も、時にその場の雰囲気やタイミングによって理解されないことがある。

そのため、言葉の本心を伝えたいと願いながらも、私たちは相手によって言葉を変えたり、タイミングを選んだりしている。言葉の選択やタイミングを誤ると、伝えたかった本心が伝わらず、すれ違いや誤解を生むことになる。しかし、そのリスクを背負いながらも、私たちは日々、言葉を通じて他者との関係を築こうとしている。どれだけの言葉を重ねても本当の心の奥底を表すのは難しい。けれども、その困難な中で「通じ合う」ことを目指している。

人が互いに共感し、同じ空気を感じられる瞬間、言葉の限界を超えた真の「通じ合い」を得たとき、その瞬間こそが、私たちにとっての至高の喜びであると言えるだろう。相手と本当に心を通わせ、言葉を超えた理解を得ることができた瞬間に、私たちは人としての豊かさや幸福を感じられるのではないだろうか。そのためにこそ、私たちは言葉を使い続け、心の奥深くに触れられる瞬間を求め、日々の生活を歩んでいるのではないだろうか。