親孝行したいときに親は無し…
この言葉の深さを理解するまでの、私と弟の経験を綴ります。
長い間、私と弟の間には価値観の大きな違いがありました。
3歳と言う歳の差を感じないほど毎日会えば喧嘩もしてたし、お互いをディスっている毎日。
「2人だけの兄弟なんだから、お互い大切にしなさい」と口を酸っぱく言われても、馬の耳に念仏状態でした。
当時は、母の苦労など知る由も皆無でした。
私は「思い立ったらすぐ行動」という信条のもと、向こう見ずに突っ走っていく性格。
一方、弟は堅実で、石橋を叩いて渡るような慎重な性格の持ち主でした。
お金の価値観も散財体質と蓄財体質、これらの違いは、私たちの人生の選択にも影響を及ぼしてきました。
僕はかつてベビースターラーメンを売っている会社で働いていましたが、サラリーマンという生活に疑問を抱き(と言うか挫折し)、運良くテニスの道に身を投じることができました。
私のその無謀にも思えた一歩は、恩師である井上さんの助けがあったためです。
そして、新たなチャンスとなった平本社長との出会いへと繋がっていきました。
一方の弟は、大学院を卒業後、上場企業でのキャリアをスタート。
転職を繰り返しながらも、家族のため、そして自らの夢のためにキャリアを築き上げてきました。
その背後には彼の堅実さと、常に向上心を持って行動する姿勢がありました。
私たち兄弟の価値観の違いは、おそらく家族の中で最も顕著に現れていたものの一つでしょう。
しかし、それが私20数年の歳月を経ることでお互いよ絆をより強くしたのかも知れません。
私たちが生まれた世代は、親を大切にすることが「当たり前」とされていました。
様々な家庭背景がある中で、親への感謝の気持ちは基本であり、それが生きる上での原則とも言えるでしょう。
20年と少し前、母は屋久島に行きたいという夢を抱いていました。
その夢を知っていた弟と後に知った私はそれぞれの人生の中で、さまざまな艱難辛苦を乗り越えた中に母の息子たちを育てる大変ささを各々のフィルターを通して想像できるようになったのでしょう。
どう母の夢を叶える手助けをするかということを少しずつ考えるようになっていました。
ある日、弟と私は屋久島への旅行を計画。
それぞれの価値観で新たな絆を作りあげたのだと思います。
6回目の年女となれば勢いだけで行くわけにはいけません。
堅実の弟はまずは歩かせることを計画。
思い立ったらすぐ行動の僕は翌週から彼の計画に基づきながらできる範囲で体力づくりを決行。
筑波山にも2時間30分近くかけて登りました。
単身赴任で出張に来る時は、弟もしっかりと協力をしてくれました。
母への愛情の中には、時には厳しさも含まれています。
お互いに飴と鞭の役割を交互に果たし始めていることに気づきました。
悪態をついたり憎まれ口を叩くこともありますが「達成感」と共にそれは愛情の1つだと思います。
屋久島では、はじめの5時間15分は勢いで私がペースを少し上げて突き進みました。
帰りの5時間45分は弟が山の急斜面を丁寧に滑落しないようにサポートしていました。
9km近い登山道に入る前のトロッコ道は決して難しいコースではありませんが、行きは暗がりの中、まさに暗中模索と言う言葉が適切で、ライトの光を頼りに進みます。
帰りは険しい山道をやっと降りた後、「まだ、あるのか?」と僅かな期待感と、まだあるのかと言う絶望感が葛藤します。
弟の緻密な計算の範囲内の中でも早めのゴールインとなりました。
最終の17:45のひとつ前、17時のバスに間に合うことができました。
喜怒哀楽、特に色々と「怒」が多くなってしまいがちな親子関係ですが、それもまた一興、人間としての本質なのかも知れません。
この経験を通じて、親孝行の意味や、家族との絆の大切さをそれぞれが感じることができました。また新たな1ページへと向かいたいと思います。
そして、それぞれの家庭や背景がある中でも、感謝の気持ちを忘れずに日々を過ごしていくことの大切さを、再認識したいと思います。
テニスもまた然り、それぞれの「経験」を通してより良いものを各の中に構築していきたいと強く感じました。
日々精進。
この言葉の深さを理解するまでの、私と弟の経験を綴ります。
長い間、私と弟の間には価値観の大きな違いがありました。
3歳と言う歳の差を感じないほど毎日会えば喧嘩もしてたし、お互いをディスっている毎日。
「2人だけの兄弟なんだから、お互い大切にしなさい」と口を酸っぱく言われても、馬の耳に念仏状態でした。
当時は、母の苦労など知る由も皆無でした。
私は「思い立ったらすぐ行動」という信条のもと、向こう見ずに突っ走っていく性格。
一方、弟は堅実で、石橋を叩いて渡るような慎重な性格の持ち主でした。
お金の価値観も散財体質と蓄財体質、これらの違いは、私たちの人生の選択にも影響を及ぼしてきました。
僕はかつてベビースターラーメンを売っている会社で働いていましたが、サラリーマンという生活に疑問を抱き(と言うか挫折し)、運良くテニスの道に身を投じることができました。
私のその無謀にも思えた一歩は、恩師である井上さんの助けがあったためです。
そして、新たなチャンスとなった平本社長との出会いへと繋がっていきました。
一方の弟は、大学院を卒業後、上場企業でのキャリアをスタート。
転職を繰り返しながらも、家族のため、そして自らの夢のためにキャリアを築き上げてきました。
その背後には彼の堅実さと、常に向上心を持って行動する姿勢がありました。
私たち兄弟の価値観の違いは、おそらく家族の中で最も顕著に現れていたものの一つでしょう。
しかし、それが私20数年の歳月を経ることでお互いよ絆をより強くしたのかも知れません。
私たちが生まれた世代は、親を大切にすることが「当たり前」とされていました。
様々な家庭背景がある中で、親への感謝の気持ちは基本であり、それが生きる上での原則とも言えるでしょう。
20年と少し前、母は屋久島に行きたいという夢を抱いていました。
その夢を知っていた弟と後に知った私はそれぞれの人生の中で、さまざまな艱難辛苦を乗り越えた中に母の息子たちを育てる大変ささを各々のフィルターを通して想像できるようになったのでしょう。
どう母の夢を叶える手助けをするかということを少しずつ考えるようになっていました。
ある日、弟と私は屋久島への旅行を計画。
それぞれの価値観で新たな絆を作りあげたのだと思います。
6回目の年女となれば勢いだけで行くわけにはいけません。
堅実の弟はまずは歩かせることを計画。
思い立ったらすぐ行動の僕は翌週から彼の計画に基づきながらできる範囲で体力づくりを決行。
筑波山にも2時間30分近くかけて登りました。
単身赴任で出張に来る時は、弟もしっかりと協力をしてくれました。
母への愛情の中には、時には厳しさも含まれています。
お互いに飴と鞭の役割を交互に果たし始めていることに気づきました。
悪態をついたり憎まれ口を叩くこともありますが「達成感」と共にそれは愛情の1つだと思います。
屋久島では、はじめの5時間15分は勢いで私がペースを少し上げて突き進みました。
帰りの5時間45分は弟が山の急斜面を丁寧に滑落しないようにサポートしていました。
9km近い登山道に入る前のトロッコ道は決して難しいコースではありませんが、行きは暗がりの中、まさに暗中模索と言う言葉が適切で、ライトの光を頼りに進みます。
帰りは険しい山道をやっと降りた後、「まだ、あるのか?」と僅かな期待感と、まだあるのかと言う絶望感が葛藤します。
弟の緻密な計算の範囲内の中でも早めのゴールインとなりました。
最終の17:45のひとつ前、17時のバスに間に合うことができました。
喜怒哀楽、特に色々と「怒」が多くなってしまいがちな親子関係ですが、それもまた一興、人間としての本質なのかも知れません。
この経験を通じて、親孝行の意味や、家族との絆の大切さをそれぞれが感じることができました。また新たな1ページへと向かいたいと思います。
そして、それぞれの家庭や背景がある中でも、感謝の気持ちを忘れずに日々を過ごしていくことの大切さを、再認識したいと思います。
テニスもまた然り、それぞれの「経験」を通してより良いものを各の中に構築していきたいと強く感じました。
日々精進。