人間の性質:悪魔なのか、天使なのか?

人生45年、多くの人々との出会いや経験を経て、私は人間の性質について深く考えるようになった。

私の背景には、仏教の実家と私自身が選んだキリスト教という、エリザベス女王と同じ宗派にカテゴライズされたと知った時はとても感動した。


余談はさておき、二つの異なる宗教的経験が存在する。
この両方の視点から、人々の性質についての理解を深めてきた。


キリスト教における「悪魔」と「天使」の概念は、善と悪の永遠の闘争を象徴している。

悪魔は誘惑や罪の象徴であり、天使は神の意志や善のメッセンジャーとして描かれる。

これに対して、仏教には「天使」と「悪魔」の概念とは異なるが、天部や魔王といった存在が語られる。

これらは私たちの心の中の欲望や苦しみを象徴する存在として捉えられることが多い。


私がこれまでに接した多くの人々の中で、一貫して善良であるか、一貫して悪であると判断できる人はほとんどいない。

しかしながら、人々の中には明確に利己的で、他者のためよりも自らの利益を優先する者がいる。

このような悪魔的な側面を持つ人々には、正直なところ、強い嫌悪感を抱くこともある。

初老にさしかかるまで、私自身もその悪魔的要素を持っていたことは否めない。
多くの過ちを犯してきたが、それに対する反省の意は深い。


害を感じることや不正を感じた場合、自己防衛や正義の実現のための反応は自然なことだ。

しかし、その感情や反応を他人の真の性質として判断することは危険である。

特に復讐の感情は、後で後悔する行動をとる原因となり得る。


私の45年の人生を振り返りながら、私は次の結論に至った。

人間は天使でも悪魔でもない。

我々は情熱的で、愛情深く、時には過ちを犯す存在だ。そして、私たちは学び、成長し、変わることができる。


また、悪魔なのか天使なのかと言うところは、特定多数の周りの総和と比率によって成り立つと言うことを学んだ。

このことからも、どちらかと言うと悪魔、どちらかと言うと天使と言った割合が、1人の人数の中、他者から見た視点で決定されるため、100%や100%天使と言う人間は存在しない。

人々との関係や出会いの中で、その人の多面性や背景を理解し、寛容な心で接することの大切さを再認識した。

そして、悪魔的な側面が多いのであれば、天使的な側面の部分で付き合えば良く、悪魔的な部分とは付き合わないようにする。

寛容である人は、天使的な側面を多く持つため、自然と人が集まってくるのは当然のことなのかもしれない。

しかしながら、天使的な側面を持つ人々も、彼ら特有の悩みがあることも確かだ。

自らのゲシュタルトは、自分自身をもちろんだが、他人からも構成されるため天使的な側面と悪魔的な側面は常に矛盾し続けるのである。

だから人生は面白い!