令和の幸福論

産業革命以降、どうも「幸福」についての考え方が自動的になってきたり、生活の中で幸福の概念を押せなくなってしまっている。

今、自分自身が不幸に感じるから(満たされないと感じるから)何か代わりになる受動的かつ自動的な「媒体」で幸せを享受しようとしてしまう。

大昔の人たちは、生活の中に幸福を見つけて幸せを感じて、戦争の中にある人たちは「今日も生きることができた」「今日はゆっくりと寝ることができた」といったごく当たり前の幸せに幸福を見いだす。

そして、幸せを受動的な享楽としてのみ求めてしまうがためにどんどん幸せを見失ってしまう。

ついには、他人の噂話や悪口がシャーデンフロイデといった形でその役割を果たしてしまう。


人々の幸せは「生活の中に」こそ見出されるべきものである。

そして常に、自分自身が行動を起こしている中で感じるべきものなのだと思う。


テニスと言うものを当てはめて考えたとき、とてもしっかり感じることのできる自発的な幸せを見いだす媒体だと言うことに気づかされる。


太古の昔の人から見れば享楽といった解釈もあると思うが、メタバース、AI化の波が押し寄せてくる令和の社会においては、それは「祭り」と同等の意味をなすのではないだろうか。

生活の中の幸福を感じることができる媒体としてテニスに興じていきたいと感じる今日この頃です!