長い間テニスコーチをさせていただいていると2つの言葉にぶつかります。
「楽しさ」と「真剣さ」
楽しいだけでは上達できないし、真剣過ぎても上達ができない。
「遠回り」や「発想の転換」はテニスの上達において不可欠であり、心にゆとりがなければ上達できません。
ボールを打つのが楽しいだけではテニスの本質を学ぶことができません。
楽しい延長に「真剣さ」があるからこそ「上達」ができます。
自分が楽しくてもおしゃべりがすぎたり、ルールを聞いていなかったりしてしまうことで他人の時間を奪ってしまうことは良くないことになってしまいます。
一方で一生懸命やっているからといってその姿勢の型を相手に求めるのも間違っていますし、他人のミスショットで生まれたポイントにイライラするのはお門違いです。
レベルによって変わるかというと実はそうでもなく、その人の求めるものによって「熱量」は大きく左右します。
例えばもともと上手でも運動不足解消のために来ているかも知れませんし、初心者の人でも新しい趣味を真剣にみずきに来ているかも知れません。
中国の言葉に「中庸」と言うものがあります。
なんでもほどほどにといったニュアンスでもなく、適当にといった表現でもなく…強いて言うならば「自然な状態で適切に」といった感じでしょうか。
楽しさにウェイトを置きながら真剣さを求める。
真剣さを積み重ねながらその中で楽しさを求める。
もちろん、その時々によりこのバランスが逆転することもあります。
「楽しさ」とは別の「愉しさ」を求めつつ、真剣さの積み重ねが「愉しさ」へと向けられる。
この似て非なる2つのバランスを保ちつつ「愉しむ」ことが重要だと思います。
そしてそれを育む「きっかけ」を作っていくことこそが指導者の究務なのかもしれません。
「楽しさ」と「真剣さ」
楽しいだけでは上達できないし、真剣過ぎても上達ができない。
「遠回り」や「発想の転換」はテニスの上達において不可欠であり、心にゆとりがなければ上達できません。
ボールを打つのが楽しいだけではテニスの本質を学ぶことができません。
楽しい延長に「真剣さ」があるからこそ「上達」ができます。
自分が楽しくてもおしゃべりがすぎたり、ルールを聞いていなかったりしてしまうことで他人の時間を奪ってしまうことは良くないことになってしまいます。
一方で一生懸命やっているからといってその姿勢の型を相手に求めるのも間違っていますし、他人のミスショットで生まれたポイントにイライラするのはお門違いです。
レベルによって変わるかというと実はそうでもなく、その人の求めるものによって「熱量」は大きく左右します。
例えばもともと上手でも運動不足解消のために来ているかも知れませんし、初心者の人でも新しい趣味を真剣にみずきに来ているかも知れません。
中国の言葉に「中庸」と言うものがあります。
なんでもほどほどにといったニュアンスでもなく、適当にといった表現でもなく…強いて言うならば「自然な状態で適切に」といった感じでしょうか。
楽しさにウェイトを置きながら真剣さを求める。
真剣さを積み重ねながらその中で楽しさを求める。
もちろん、その時々によりこのバランスが逆転することもあります。
「楽しさ」とは別の「愉しさ」を求めつつ、真剣さの積み重ねが「愉しさ」へと向けられる。
この似て非なる2つのバランスを保ちつつ「愉しむ」ことが重要だと思います。
そしてそれを育む「きっかけ」を作っていくことこそが指導者の究務なのかもしれません。