頑張るとガンバラナイの意味とそれがもたらす子供の将来

精神が発達する過程において16歳から18歳までが勝負。

あらゆる物事への取り組みが「結果」として現れ始めたのもこの時期です。

「がんばる」と言う言葉は我を張ると言う語源もあり、あまり好きじゃないので「一生懸命」と置き換えましょう。

うまくできなくても一生懸命取り組む子と投げやりな態度で取り組む子…

もちろんこの結果の行く末は一目瞭然でしょう。

周りから見たときに「頑張っている」「一生懸命」と言う客観的な評価がなされて初めてその人の人間としての社会における「価値」が与えられます。

そしてがんばっていない子は必ず「私(僕)は頑張っている」と答えることでしょう。

もちろん評価の基準はコミュニティーによって変わることもあるでしょうが、人として一生懸命かどうかは何事においても不変のものだと私は思います。

1人でゲームをしたり、絵を書いたり、部屋に入って没頭しても良いでしょう。

しかしながら、本当の第三者が存在しないコミュニティーで自分のペースだけで「やる気」を出したり出さなかったりしていると他者と関わるときに協調することができません。

ゲームを勝手にリセットしたりフレンドを削除したい、自分勝手にことを進めることができます。

これと比べ絵を書く事は一見芸術的にも思いますが、場所が変わったり他者と関わらないのであれば同様のことが懸念されます。

一方で「本を読む」と言う事は自分のペースはありますが「第三者」を介するとができます。

小説であれば登場してくる人物の心理描写や、表現、実用書であればいろいろな定義や、パターンを学ぶことができます。

自分の考えを理解してもらうために「他者とのふれあい語らい」を学ぶ必要があります。

他者の触れ合いと語らいを達成するためには「一生懸命」は欠かせません。


結果は一目瞭然で周りから見たときに「一生懸命」を感じてもらえているのか?これに尽きます。

もちろん媚びへつらう必要はありませんが、他人を不快にさせるような振る舞いが許される謂れもありません。

技術の良し悪しではありません。

社会に出たときに、親元を離れたときに、顕著に差が出てくるのはこの「一生懸命」だと感じずにはいられません。


頭が良いとか悪いとか運動能力が高いとか低いとかそういうものではなく「人として」どのように取り組むべきか…

塾講師や家庭教師の経験もある私はテニスのみならず全てにおいてこの法則が適用されるのだと強く感じました。