自己中は本当に悪いのか?

「大義」が存在するか?

スポーツにおいても勉強においても特に大人は時間が限られているため、捻出して試行錯誤の結果出たもので行動するため多くの人には「理由」がそこに存在するのですが、親の管理下に置かれるときにこの「大義」が自分のために存在しません。

勉強が好きではない子のほとんどが、仕方なくやっている、親がうるさいから、ゲームができないからなどといった他者の大義を全うしようとしている「意識」があります。

テニスで戦績が出た選手も同様ですが「自分のため」が希薄になっているような気がします。
文武問わず、華々しい成績を持っているにもかかわらずバーンアウトしてしまうのは他者への対応を果たすことへの疲労感となり、そしてそれが諦念となって行動を決定づけてしまいます。

嫌々でやっていたとしても「大義」がある子は続きます。
徐々に「大義」のウエイトが「自己」に割合をシフトしていけば、その物事(スポーツ、学問の習い事)が大成する可能性が出てきます。


事実は誰に向けられているのか、理由は誰のために存在するのか、真実はどこにあるのか。


自己中心的な大義名分は存在したほうがいいのかもしれません。


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