褒めるに勝る財産なし

赤ちゃんが2足歩行する時、ほとんどの子が2本の足で歩けるようになるのは「褒められる」と言う条件が成立するからなのではないかと強く思う。

別の話ではあるが、「身体の硬い赤ちゃんがいない」についてと同様、この理論は最近ではゆるぎないものとなっている。

つまり、2本の足で立つこと自体に「賞賛/賛辞」褒められると言う行為が必ず存在する。

歩き方はこうだとか、この歩き方のほうがいいとか、左右の手足は反対移動して歩行するとか、南蛮歩きのほうがいいとか、一直線に歩けだとか、そんな指導はおそらく誰もしないだろう。

褒められること自体でモチベーションが上がり、本能的に「これが正しいんだ」と言うロジックが構成されていくのだと思う。

テニスにおいても空振りが続いている中でも些細な変化を気づくことで将来は加速度的に一変する。
そしてその変化を現実のものとするために「褒める」と言う表現を用いる。

言動や行動で指導者が示すことで、赤ちゃんが2本の足で歩くことができることと同様に、成長し始めるのである。

とにかくその個人にフォーカスして、「良い意味で変化した点」をディズニー映画ばりにジェスチャーで伝えることで状況は大きく好転する。


この瞬間から「褒める」と言う行為自体が、神聖かつ不可侵な極めて高尚なものへと進化を遂げる。


当たり前のようにできる事は当たり前のように褒められてこそ可能となるものなのかもしれない。

人生折り返しの中で、振り返ってみると叱られたこと以上に実は褒められていたことが初老の今となって自信になっていたことに気づく。

喉元過ぎれば熱さを忘れるわけではなく喉元過ぎたからこそ熱さの本当の意味を知るのではないだろうか。

またこの瞬間から「褒める」の真実を発言していきたいと強く感じる。